2012年5月 8日 (火)

大阪市音楽団と私の接点を見つけた!~島貫利博先生~

大阪市音楽団の打楽器奏者であり、第9代の団長さんもしてみえた島貫利博先生のことを、突然、思い出した。

私は若いころに吹奏楽コンクールで指揮をするようになってから、およそ30年にわたってなんらかの形で参加してきた。それは、前述した津高校吹奏楽部であったり、むほR管楽アンサンブル合奏団であったり、津コミュニティーバンドであったり、赴任していた現在は四日市に合併した楠小学校吹奏楽部であったり、津市の養正小学校金管バンドであったりした。

いつのころからか、たとえ本番の演奏が実際にうまくいかなくても、音楽全体の意図するところを汲み取ってくださり、音楽構成がよいとか、歌心があるとか、メンバーが安心してのびのびと演奏しているとか、とにかく、褒めてくださる審査員の先生がいることに気づいた。

もちろん、演奏がうまく行くと、その先生は、大変、大変、まるで自分のことのように、喜んでコメントをしてくださった。それで覚えた名前が、島貫利博。

まったく面識もないし、直接何かを教わったこともない、ちょっとしたご挨拶さえしたこともない。先生、と呼ばせていただくのもおこがましいような関係である。

2,3年に一度は、どこかの団体の演奏で、島貫利博先生の審査を受ける機会があった。島貫先生のコメントは、いつも私を励まし、次の目標に向けて努力をさせてくださった。

何度も、演奏が不安なときに、審査員のなかに島貫先生の名前を見ると、申し訳ない気持ちになることがあった。まさか、今回ばかりはよい評価をいただけないだろう。だいたい、私のことなど覚えていていただいているはずがない。本当に、そう思って、審査員の先生方の存在は忘れて音楽に取り組んだ。

いろんな先生方がいろんな評価をするので、総合的な結果がいつもよいわけでもない。なかには大変厳しい先生もいる。私はこれも何度も言ったが、コンクールに参加する以上は、コンクールの審査結果には文句を言わない主義だった。

そういうとき、つまり、他の先生方が厳しい評価をして、それが納得できるときでも、島貫先生は、よいところを見つけて褒めてくださった。最近は私自身がコンクールの指揮をする機会がないので、どうなのかはわからない。

けれども、30年にもわたって、何度か島貫利博先生の審査を受けながら、一度も悪い評価をされたことがないのである。これは、私の音楽仲間たちも、ものすごく不思議がっていた。誰も、島貫先生と個人的なつながりを持っている者もいないのである。

島貫利博先生と私がお会いするのは、コンクールの本番の、審査員席と、ステージの指揮台の上だけであった。10回?15回?何度あったかだろうか。

20歳ちょうどで、当時のヤマハ吹奏楽団の指揮者であった故原田原吉先生に、白子高校よりも最高点をつけていただいて、初めて県代表になった。その後、指揮者でクラリネット奏者の朝比奈知足さんに非常に褒めていただき、また、東海地区の有名な指導者や関東や関西からくるプロの音楽家の審査員の方々に、いろんなご講評をいただき、それを糧として音楽表現をつくってきた。

20代半ばごろに、できたばかりの名古屋伏見の電気文化会館ホールでE・サティの特集を演奏し、当時の朝日新聞の辛口の音楽評論家であった都築正道氏がなぜか会場にお越しくださり、アンケート用紙いっぱいに、プロよりも音楽を愛しているのが伝わると絶賛していただいたこともある。保科洋先生との出会いや、故松井邦雄先生との出会いも、私にとっては、世の中が音楽修行の場であった。

そのようないろんな幸運にも恵まれながらも、まだ、駆け出しのわけのわからないころから、わけがわからないままに音楽を続けている私の演奏を、審査員席からいつもあたたかく応援し続けてくださったのが島貫利博という音楽家である。島貫先生は私のことなど覚えていないだろうが、私は、島貫先生に見守られて、自分の音楽を信じる方向で新しい管楽器と打楽器のコラボレーションを、編曲の段階から練り直し、練習を工夫し、本番を迎えた。そのやり方は、プロのような大人を相手にしても、初心者ばかりの小学生を相手にしても、基本的なものは変わらない。

それを、見抜いてくださって、よいといは褒め、悪いときは励まし、一貫して応援し続けてくださった人が、島貫利博先生だった。おかげで私は吹奏楽にずっと親しんでくることができた。

大阪市音楽団が廃止になる方向であることを知ったのは、私は世間より遅かったと思う。知ってただちに、これまでに書いたような記事をいくつも書いた。大阪市音楽団の生の演奏会は行ったことがない。録音や録画で聴くだけである。それなのに。大阪市音楽団という名前の響きが、私には、大げさに言えば、私の音楽の育ての親のような気がしていた。

なんで私がこんなにこだわるのか、日本で唯一つの、公営の吹奏楽団だからか。日本でもっとも古い伝統と実績を持つ団体だからか。

初めはそうだと思っていた。自分には直接の接点がないと思いい続けてきたから。

審査員と審査される側、という、まったくクールでシビアな関係だけが、年月を積み重ねた。終始一貫して、島貫先生は、私の音楽を理解してくださった。「指揮者の意図をもっと演奏者はわかるべきである」と書いていただき、本当にあわてたこともある。うれしかったけれども、つまりは私の指導技術が貧弱であったのが原因なのだから。

大阪市音楽団のメンバーの方々は、日本の各地で、このように、音楽愛好家を育ててきたのだろうと思う。大阪市音楽団の役割は果てしなく大きいのではないか。

私が島貫先生に褒めらて、自信と課題を自覚して、次の団体で音楽作りをするとき、島貫先生に教えていただいたことや、私の内側にあるものが島貫先生の後押しをいただいて、多くの音楽仲間や子どもたちに影響を与えていく。

打楽器の表現能力への期待は低学年の音楽授業にも直結するし、和声やバランスなどについては中学年の音楽で取り扱える。そして、要素の集合ではない、音楽そのものがそこにあり、それを生き物にするか、剥製にするか、ロボットにするか、模型にするか、が指導者に問われる。私は生き物派なので、本番だけ、練習とは違った指揮を意図的にすることがある。今、そこで、生まれ出るもの。

大阪市音楽団の島貫利博先生、先生と呼ばせていただきますが、私は、ずっと島貫先生にあたたかく見守られ、励まされ、今を迎えている。これは確かなことです。

恩返しができるとすれば、いったいどのようにすればいいのでしょうか。楽団への募金も行われているようですので、それにこっそりと応募させていただきましょうか。

島貫先生は、音楽については一つの筋を通される方で、音楽がその場で生きていないと評価をしてくださらない。営業で生活費をすべてまかなうという追い立てられた状況の人は、ピッチやアインザッツやバランスや音色のブレンドや、ミスの少ない演奏を評価する。

島貫先生は、そのようなことよりも、もっと大切なことがある、といつもメッセージを送ってくださる。これが、大阪市音楽団のメンバーとして、音楽そのものを追究できるという立ち場にあればこそできることだとしたら、大阪市音楽団が亡くなることは、将来の日本にとってとても大きな損失だろうと思う。

島貫利博先生には、これまでに一言もお礼を言う機会は得られませんでしたが、こうしてここでそれを述べることの失礼さをお詫びいたしますとともに、島貫先生がさらに有能な若手の才能を、コンクールという狭い世界ではありながら、島貫先生の感覚で見出し、育てていただくことを、今後も私はぜったいにしていただきたいと思います。

ああ、私の吹奏楽はコンクールを通して、大阪市音楽団の島貫利博さんに育てていただいたものだ。この事実をこうして述べ、それが半世紀ぶりの三重県からの小学生合唱の全国大会参加につながったり、私自身がこうして教員養成の仕事を得ることになったりしたのもしているkとおを、当局にはわかってもらいたい。

大阪市音楽団の打楽器奏者の島貫利博氏は、三重県の音楽愛好家であり音楽教師である私を育て、三重の子どもたちや音楽愛好家に影響を与え、今は教師を目指す若者とかかわっている。これは、大阪市音楽団の島貫先生のおかげです。

島貫先生がつけてくださる「A-」。おおむねよいが、足りないところがある。、という評価。

もちろん「A+」も何度かいただいたが、島貫先生の「A-」は、ものすごい価値がある。

やっぱり、大阪市音楽団は、どんなことがあっても、大阪市音楽団のままでなければいけない。

島貫先生とほかのメンバーのみなさんに、恩返しをしなければならない人は、いっぱいいるはずだ。私はさっき風呂に入っていて、大阪市音楽団→島貫利博先生→私の感性を見て認めていただいた方がいる→私はふつうとは違う道を歩んでいる→…

昔、深井先生という方に教わったころがある。トランペットの方だが、この先生にも、中学や高校時代に、とても大切なことを教わった。確かこの方も、大阪市音楽団の方だったような気がしているところです。

寝ます。おやすみなさい。

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